kakeji’s diary

外資系企業に買収されるか、外人の役員に制圧されそうな会社で、日々静かにいろいろと思っています。誰に語るわけでもなくつづる独り言です。

夏の街灯

やっと少し涼しくなってきた。けどまだまだ蒸し暑さは残っている。

ある日、水天宮で用事を済ますと夜であった。少し歩きたい気分であったので、茅場町の駅まで歩くことにした。東京に住んで何年か経つが、自然といつも過ごすエリアが決まってしまうのか、来ない場所はとことん来ない。私にとってこの辺りはまさにそんな地域だ。だから少し好奇心もあり、散歩がてら歩いてみる。

 

少し歩くと首都高の灯りが上方に見える。まだ湿度が高いのか、高速道路の街灯独特の黄色がかった光に、少しボンヤリとした空気を纏っていた。

あまり東京の街中では見ない光景。けど昔の大阪はよくみた光景。古い記憶が突然蘇ったのだ。多分、自分の中の大阪の夏ではよく見れた光景なのだ。

 

私は大阪で若い頃を過ごした。とても真面目なサラリーマンで、生活のほとんどを仕事に費やしていた。そんな時に、いつも飲みを誘いにくる先輩の宮さんを少し鬱陶しく思っていた。「酒ばっかり飲んでないで、もっと真面目に仕事しろよ」と思っていたし、実際本人にも言ったこともあった。宮さんはほぼ毎日誘ってくれた。「今日は仕事山積みだから無理です」と言っても「○○さんと先に店に入っているから、終わったら必ず電話しろよ」ってな具合で何だかんだ付き合わされた。

ある日のこと、私は顧客を怒らせて大口の商談を逃した。商談を失ったショックもあったが、何より顧客を怒らすことなどなかったので、自分の自信がポッキリ折れてしまった。

謝罪して、顧客先から直帰し、家で少しボーッとしてた。すると宮さんから電話があった。「おい、お前のアパートに下にいるから、すぐ降りてこいよ。飲み行くぞ」と。慰められるのか?アドバイスをもらえるのか?そんな思いで飲みに行ったが、宮さんは何も仕事の話をせず、いつも通り馬鹿話をしていた。最後までずっと。

「なんでですか?」なんて私も聞かない。けど、この時に少し大人の人の振る舞いを知った気がした。何か、今まで見えていなかった視界であり、考え方であり。

 

宮さんはその後、会社を辞めてしまった。とても思い出が多いが、実際に過ごしたのは1,2年であった。つまり濃い時間を過ごさせてもらったようだ。

あれから20年以上過ぎたけど、どうせどっかで飲んでんだろうな。

 

 

彩のある風景

先日youtubeを見ていたら、素敵なCM(?)が流れてきた。相鉄線東横線直通になることを記念した動画である。オダギリジョーさんと山崎天さんが描く父と娘の12年は、セリフも一言二言しかないのに、素敵な時間経過を見せてくれる。

ちょっと前の自分であれば、多分この動画に感じるものはあまり無かったと思う。けど今は行間に沢山の意味を見る。いやもしかしたら、勝手に意味を着けているのかもしれない。

 

私には娘も息子もいない。子供を作る前に離婚してしまった。そして年齢的におそらく生涯において、子供を育てる機会はもう無いだろう。この事が現実味を帯びた頃から、世にある親と子のストーリーの見方が変わった。

 

「こんなに子育てが楽しいものとは知らなかった。もっと早く子供を持てば良かった」と、かつて遊び人だった先輩が言った事に驚きつつ、一方で羨ましいなと思った。けど多くの場合は、「いかに大変であるか」を聞くことが多い。実際に頻繁に会社を早退する先輩もいたし、辞めなければならない後輩もいた。「楽しいことばかりじゃ無いですよ」と言われるが、それでも大切な時間にして欲しいなと思う。思うけど、言わない。それは私が子育てを経験したことが無いから、その辛さや大変さを知らないから、何も言えないなと思ってしまうので。子育て論については何も話せないな、と。

 

けど最近になって自分も経験して、そして伝えないといけないことがあるな、と思いついた。それは”子供の居ない生活”。自分の為だけに働いて、飯を食って、、、と言うような無味な生活。晩年になればなるほど、自分だけの為に頑張る虚しさと、彩りの無さを感じてしまう。だからこそ、実際にはいろいろな問題や大変さに直面するだろうけど、子育てを楽しんで、そして幸せである事を感じて欲しいなと思ってしまう。もちろん綺麗ごとの文言とは重々承知しているけど、けど望んでもチャンスに恵まれない人も居るんだよ、とささやかに思う。いや伝える。

 

この春の季節になると、家族のイベントが多いいのだろう。いろいろな場所で家族の風景を見る。お金も時間も特に取られる時期だろうけど、お父さん・お母さん。ここはひとつ、がんばれ、がんばれ!

 

 

最近の若者は、なかなかヤル!

まさかのサヨナラ勝ち!

本日は2023年3月21日。WBCの準決勝戦。終始負け試合の匂いがしたが、最後に村上がやってくれた。これまで思うような結果が残せていない事を思うと、さぞ辛かったろう。それを思うと少し泣けてきた。

昨年のサッカーワールドカップでもそうであったが、最近の日本代表は国際試合でビハインドの試合をひっくり返す。ここぞという時に、期待に応えてくれる。これは私の世代では考えられない事だ。

 

私の社会人人生は福岡でスタートした。

「Kakeji君、今日は同行してやるよ」

入社して半年ほどが過ぎたある日、支店長のTさんが声を掛けてきた。新人の私に声を掛けること自体が珍しかったので、何事かと思った。

私の担当エリアは隣県の大分県であった。当時は、福岡都市高速と九州高速がまだ直通でないころ。移動には片道2時間は軽くかかった。Tさんは大好きなタバコを燻らせながら、助手席でくつろいでいた。Tさんの吸い方は独特であった。2口,3口吸うと消し、また新たに火をつける。あっという間に灰皿は一杯になった。

 

「Kakeji、もう半年だな。どうだ、仕事は慣れたか?」

「そうですね。まだ分からない事もありますが、少し自分のペースも出来てきました」

「そうか。けどなんだな。最近の新人たちは皆んな優秀だけど、型にハマっているというか、枠から出ないというか、良くも悪くも真面目だな」

”真面目だな”を、私は”つまらないな”と解釈した。

 

「いえいえ、そんな事ないですよ。私の同期は個性が強いですよ」

「ふ〜ん」

「多分まだ皆んなどこまでやって良いかがつかめてないんですよ。境界線と言いますか。もう少し仕事に慣れてその境界線がつかめたら、暴れ出しますよ!」

Tさんはタバコを消し、ひと息入れ、また新しく火をつけた。

「あのな。その。んー、自分の境界線なんて、探たって絶対にわからないんだよ」

「???。。。えっ?」

「自分が探した境界線というのは、本当の境界線よりズッと手前の安全圏なんだよ。だから、そんなんじゃ永遠に見つからないの。本当に境界線を知りたかったら、その線を越える事だよ。越境ね。要は俺らにボロカス怒られるぐらいのところが、境界線なんだよ。そんなお利口さんの心持ちじゃ、無理だよ」

 

衝撃的だった。すでに自分が枠にハマっていて、失敗を恐れている事に気づいていなかった。何も言い返せなかった。少し間をおいて、心の底から一言だけ「ありがとうございます」と言った。多分、Tさんには伝わった。だから「うん」と一言だけ返ってきた。

 

あれから数十年。結局、私はそんなに怒られない会社人生を過ごしてしまった。要はなかなか型破りになれなかった。未だに境界線に辿り着かない。

Tさんは定年後、愛知県に移り住み今だご健在とお聞きする。試合も見ていただろう。今日のタバコは、さぞ美味かったであろう!

 

 

非日常を想像できるかな

「Kakejiさん、帰り道は川崎方面ですよね」
「そうだよ。どうしたの?」
「あの、途中まで彼女たちも一緒に連れてってもらえますか?方向が同じなんです」
そこには3人の初めて会う女性たちがいた。
「え??? もちろん良いけど、まだ18時だよ」
「なにを言ってるんですか。そういう問題じゃないですよ。こういう混乱している時は 何が起こるか分からないじゃないですか?」
「え、、、、今の日本で???」


これは2011年3月11日に後輩の女性社員とした会話で、今でもよく覚えている。そして、のちに自分の配慮のなさ、意識の低さに気づかされる。

地震が発生した日は西新宿のオフィスにいた。当時住んでいたのは川崎周辺。多少の距離はあるが、酔っぱらって渋谷から歩いた経験もあったので、帰ろうと思った。会議室にいる帰宅困難な同僚から「がんばれよ~」、なんて陽気な声も聞こえてきた。当時オフィスは情報が少なく、事の重大さに気づくのはかなり後になる。もちろん自分も同様で、一緒に帰る後輩たちと、途中で一杯やろうかなと思っていた。

 

後輩男性社員たちから「Kakejiさん、準備OKです。帰りましょう!」と声がかかる。そんな時に冒頭の会話となる。

彼女たちは少し申し訳なさそうな表情をしていた。なので盛り上げながら帰ろうと、男性陣で目配せをした。そんな出発だった。
当日の街の混乱は沢山の人が知る、また書いている内容どおりである。人があふれ、人波に押され流されてしまう異常な状態。たまたまお店も開いていたし、街灯も点いていたから良いが、暗闇であったらとんでもない恐怖であったろう。その後も歩いていると、全く知らない女性陣から何度も声をかけられた。「途中まで一緒に行っても良いですか?」と。我々は女性社員を連れていたので、声を掛けてきたのだろう。とても勇気のいることだけど、それ以上の不安があったのだろうと思う。

 

当時私は自分自身を想像力のある人間だと思っていたし、人に配慮できる能力があると思っていた。思いっきりの勘違いであった。非日常など考えたこともなかった。冒頭の女性社員のように、配慮が至ることも行動することもできなかった。未熟だな、と思わされた一コマだった。
3月11日には良くも悪くも沢山の出来事があり、思い出がある。その中でこれは人に語る事ができ、また活かせてもらえそうな数少ないエピソード。優しい社会を作るのは、意外とこういう想像力かもしれないな。

多分、いつか気づける日が来るよ

本日もかなり暖かさを感じる日であった。空気の匂いも変わってきた。季節は確実に春に向かっている。

春の良さは大人になってから強く感じるようになった。何故だろう?確かに若い頃は別に何を感じることもなく過ぎていく季節であった。むしろ卒業など別れを感じる季節であったかもしれない。

 

そういえば、もう卒業旅行で海外などにも行けるようになったのだろうか?コロナの影響は無くなってきたのだろうか?

 

20数年前に私も友人と卒業旅行に行った。もちろん良い思い出であったが、実は私だけ友人よりも早く帰国した。理由は引越しの荷造りと荷出しの必要があったから。多分、今ではこんな会社ないだろう。入社前に赴任先が決まり、伝えられ、3月の段階で会社手配のトラックが荷物を取りにやってきた。後に先輩たちを驚かせるほどの少なすぎる荷物を預け、あっけなく作業は終わった。ちょっと変わった経験なので、この一連の事はよく覚えている。そしてもう一つ覚えているのが、この少ない荷造りをなぜか父親が積極的に手伝ってくれたことだ。割と放っておかれる事の多かった人生だったので、妙に記憶に残っている。

 

なんとなくこの「妙」が取れ、その思いを察する事のできる歳になった。もう答え合わせはできないけど、多分多くの親が感じる春の感情だったのだろう。今となって、やっとそんなことを考える。

 

コロナなどあり、なかなか思うようにいかないかもしれないが、若い人達には友人との思い出を沢山作って欲しい。そして親の気持ちは今はわからなくて良いので、元気に次のスタートの準備をして欲しい。多分それで良いと思う。

 

自己紹介かな?

こんにちは。

なんとなく独り言を書いていこうと思いつき、この場を見つけました。

私はどこにでも居る中年のサラリーマンです。どこにでも居るからこそ、もしかしたら共感してくれる人もいるかもな、、、なんて薄い希望も持っています。

 

不思議なもので会社生活も20数年も超えてくると、自然と見えるもの・感じるものなどに変化が出ます。若い頃には思いつかなかったこと。いや、むしろ少し軽蔑していたような「年寄り先輩」の方々の発想に自分もなってくるもんだな、なんて思うのです。

 

また昨今のグローバル化に煽られ、当社は外資系企業に買われてしまうか、どんどん投資会社から派遣される外国人役員に占拠されてきました。何か言いたくても英語か。。。。。この言語の問題は、若い人には全く意味がわからないだろうけど、我々の世代にはなかなかこたえる。。。

要は入社当時には思ってもいなかった悩みが増えるもの。最近までは頑張ろうと一人溜め込んで頑張っていたけど、少しバカらしくなってきたところで、吐き出していこうかななんて。

 

まあ中年の思うところなので、まだまだ若手は見ない方が良いです(笑)